通り過ぎたものを大事に抱えているのは、たぶん私の悪い癖
昨日は、電車に揺られながら色々と考えていました。
生きていると、それだけで色々と抱えて生きていくことになる。
進学、就職、恋愛、結婚、仕事の繋がり、その他コミュニティ、挙げていけばキリがなくて。
悲しいかな私は行った先々で可愛がられるようなタイプではないので、誰かの作ったコミュニティに所属し続けることが大の苦手。
招かれたり、途中参加の空間では、その場の空気・暗黙の了解などに気を張ってしまってショートしてしまう。
単発であればなんとかやり過ごせることも多い。
けれどもこれが定期的にとなると、自ずと必ずボロが出る。
だから誰かのコミュニティに所属するより、自分で作っちゃったほうが話が早くて気が楽じゃないかと思っている。
それぞれのシーンを通り過ぎるように私は過ごしてきた。
一方で共に過ごした人たちは大抵、今でも同じシーンに所属している。
シーンから離れた私が彼ら・彼女らと再会した時には、通り過ぎた時間と存在し続けた時間、二つの時間軸が混線して不思議な気持ちになる。
思えば、離れた今でも親交を持ってくれているのは、決まって自分がコミュニティを作った先で知り得た人。
もしくは所属していたコミュニティの中から私が勝手にラベリングして、新たに関係を持ち得た人たちばかり。
…案外、みんなそんなもんなのかなとも思ってみたり。
それとも、置かれた場所で咲けるような人は、与えられたコミュニティの中・役割の中で適切に親交を持てるのだろうか。
私にはきっとできないので、そうであるならば羨ましく思う。
生きていると、それだけで色々と抱えて生きていくことになる。
今の私はありがたいことに、おそらく両手いっぱいに抱えて生きているのだけれども(私のキャパが小さ過ぎるだけだろという指摘は御法度。図星だから)、全部を落とさないよう、必死にバランスを取ろうとしている。
私は人との距離感が狂っている節がある。
私の両手の中には高校、大学、新旧を問わない仕事の繋がり、今の仕事の状況、元家族…そういった荷物と、目の前の現実などで溢れそうになっている。
どんな距離感の手荷物でも、可能な限りは手元に抱えて生きていこうとする。
既に私のことを手荷物から下ろして押し入れにしまい込んだり、あるいは捨てた人たちにさえ、また会えるかもしれないと思うと嬉しくなって、まるで昨日も会っていたかのようにコンタクトを取ることさえある。
大変お恥ずかしい…。良くないな。
人が好きと言うと聞こえはいいかもしれないけど、一方的な感情は暴力にもなりうるわけで。
でもやっぱり、親しくしてくれた人、お世話になった人、教室まで足を運んでくれた人、ギターが上達して卒業した生徒さん、転勤などで遠くへいった生徒さんなどのことは毎日考えてしまう。
元気でいてくれたらなと、また会えた時には楽しい時間を過ごしたいなと。
生きているだけでたくさんのコミュニティに所属してしまう現代だから、また会えることの奇跡の芽が見えると、つい嬉しくなってしまう。
でももういい大人なんだから、自分の荷物くらいきちんと管理できるようにならないと。

